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心中的記憶

た顔になった

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た顔になった


 信一は、一度部屋に戻って身支度を整えると、駅へ向かった。途中にあるペットショップで、プラスチックの虫籠《むしかご》五つと捕虫網を買う。こんなものを手にするのは、何年ぶりのことだろう。むしょうに懐かしかった。小学生のころは、虫取りに行くような暇は、ほとんどなかった。ただ、夏休みの宿題で昆虫採集をするときだけは、おおっぴらに野山に出かけることができたので嬉《うれ》しかった。青空の下、信じられないようなスピードで飛翔《ひしよう》するギンヤンマやアオスジアゲハを追いかけていた、あのときの気分と興奮が、よみがえってくる。目指す獲物は、当時とは少々違っていたが。
 信一が部屋に戻ってきたのは、それからおよそ三時間後のことだった。
 虫籠の中には、大型の蜘蛛がひしめき合っていた。胴体がやや細長く、水面に何種類もの絵の具を落として紙で掬《すく》い取ったような、複雑でサイケデリックな紋様のある方がジョロウグモ、ずんぐりとしていて、黄色地に黒い縞《しま》のあるのがコガネグモである。わざわざ、武蔵野にある寺の境内まで行って、捕獲してきたのだった。電車の中では、何人もの乗客が、彼の虫籠の中に目を留めては、ぎょっとし。だが、それすらも、なぜか信一を、勝ち誇ったような気分にさせてくれた。
 部屋の中で、あらためて戦果を確認すると、すでに縄張りを巡る戦いに敗れた数匹が、白い経帷子《きようかたびら》に包まれた骸《むくろ》と化していたが、それでもまだ、五つの虫籠で、合計二十匹近い蜘蛛が生き残っている。
 その様子を見ていると、うなじの毛がちりちりと焦げるようなスリルを感じるのと同時に、腹の底から、ぞくぞくするような勝利の快感がこみ上げてくる。自分は今、邪悪な蜘蛛どもを支配している。あれほど忌み嫌い、恐れていた、蜘蛛をだ……。だが、これではっきりした。こいつらは、いくらおぞましく見えようとも、しょせんはちっぽけな虫けらにすぎないのだ。生殺与奪の権利は、全部、自分が握っているのだ。
 もう、自分には、怖いものは何一つない。
 信一は、それから長い間、うっとりしながら、飽かずに蜘蛛を眺めていた。
 はっと気がつくと、いつのまにか夕方になっていた。そろそろ、コンビニへ行く用意をしなくてはならない。
 五つの虫籠は、ずらりと並べて窓際に吊《つる》す。赤く染まりつつある西日が射し込んできて、虫籠のシルエットを畳の上に投げかけた。まるで影絵を見ているように、籠だけでなく、蜘蛛の形まで弁別できた。緩慢な動作で、籠の中の縄張りに巣を張ろうとしている。
 そのとき、何かが聞こえた。
 信一は、一瞬、蜘蛛が鳴いているかのような錯覚に襲われた。だが、もちろん、蜘蛛は鳴かない。
 また、聞こえた。
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